詰所の歴史

Ⅰ.沿 革

 天明8年(1788)、今から237年前の1月30日未明、洛東からの出火は折柄の強風にあおられ鴨川を越えて西に燃え広がり、東本願寺は宝庫一棟と()(こく)(てい)を残し全て消失。洛中の各宗派寺院990余寺、民家183,000余戸をも焼き尽くし、死者は2,630余人に達した、と伝えられて来ました。(天明の大火) 信仰の拠所たる本廟を早く再建するために、翌寛政元年(1789)3月28日、御影堂(ごえいどう)手斧(ちょうな)(はじ)めにより大工事が始められましたが、尊い命が失われることも多く、工事は容易に進みませんでした。現状を愁いた乗如上人(東本願寺十九代法主)は、この年5月に「(えん)(しょう)の御書」を発示され、「すみやかに再建成就(そうろう)よう、ひとえに(たの)み思うこと」と述べられ、病弱の身を顧みず全国を御巡錫(じゅんしゃく)され、「真宗本廟」の建て直しを依頼されました。

 上人のお(いたわ)しいお姿を見た湖北(坂田・東浅井・伊香)の門信徒は感泣し、真っ先に焼跡へ駆付け、いち早く始動しました。その噂話は瞬く間に全国へ流布し、遅れを取るまいと全国から多くの信者が後に続きました。湖北門徒たちの家業をかなぐり捨てての奉仕労働が呼び水となって本格的な再建事業が始まったのです。

 その結果、全国から腕の良い大工と重労働を厭わない農民たちがぞくぞくと参集し再建に向けて大きく前進しました。阿弥陀堂と御影堂建立の難関工事も軌道に乗りました。季節や天候にかかわらず一日も欠かさず作業に従事し、筆舌に尽くしがたい困難を乗り越え、大火から11年後に落慶を迎えました。その時の合宿所が「お小屋」「詰所」と名付けられ、現在の東浅井詰所として受け継がれています。今日東浅井詰所は、先祖の遺徳を敬慕しつつ、旧東浅井郡(長浜市)内163ケ寺院、門信徒の厚い信仰により護持、管理運営されています。


Ⅱ.二十二日講の起源

 再建工事のために全国から駆付けた門信徒達は先ず本山周辺に粗末な作業小屋を作りました(前掲)。最盛期には60カ所の「お小屋」に、5,000人近くがお手伝い普請のため雑居していました。夜明けと共に現場で重労働に汗を流し、夜は詰所を訪れた高僧達の聴聞に耳を傾け、学びと信心を涵養する道場でした。信心を唯一の支えに再建に邁進していました。

 工事が始まって4年目の寛政4年(1792年)2月22日乗如上人が49歳で御遷化(せんげ)されてしまいます。御子息の達如上人(東本願寺二十代法主)が再建を引き継がれ、焼失から13年目の享和元年(1801年)に堂塔伽藍工事が完了し落慶法要が勤まりました。法要が終わっても、参詣した湖北の門信徒達は乗如上人の御心労やお話されたことを懐かしみ、その場を離れ難かったようです。

 達如上人は尽力のあった門徒に対し、乗如上人(歓喜光院)の「黒衣の御影」36幅を下付されました。湖北三郡には、2幅の「御影(お姿の掛け軸)とお墨付(御書)」が下付され、これを機に湖北三郡(伊香郡・東浅井郡・坂田郡)は組織を編成しました。ここから、御命日(2月22日)に因み、「二十二日講」の行事が始まり今日まで連綿として引き継がれています。


Ⅲ.今日の詰所

 明治の初め頃までは本山周辺に約60件の詰所が存在していましたが、時代の変遷により現在では僅か5ヶ所になりました。(富山・砺波・飛騨・伊香・東浅井)

 現存する5カ所の詰所では、先人の苦労を偲び、乗如上人の遺徳に思いを寄せて法要を行っています。奇数月の十日に「十日講」を組織し輪番制で年間六回営んでいます。「講」とは人が集まる会のことで、特に仏教のお話を聞く会のことを言います。

★伊香詰所 https://ikatsumesyo.sakura.ne.jp/
★砺波詰所 https://sites.google.com/view/tonamitsumesho
★飛彈詰所 京都市下京区正面通東洞院西入廿人講町21 TEL:075-351-4981
★富山県詰所 京都市下京区珠数屋町烏丸東入高槻337 TEL:075-351-4931